普通の人々

 

ムエタイ氏

旧館にもとムエタイ(タイボクシング)の選手だった人がいた。年のころは50歳ぐらい。下半身不随だった。ボランティアの顔を見るとすぐに手を挙げ、マッサージを頼む。

いかにも辛そうな顔をしながら、痛い部位を指し示すのも忘れない。他のボランティアから一日に5回も6回も受けているのを知っているので、私はあくまで順番という態度を崩さなかった。すると、少しすねた顔をし、じっと私の姿を目で追っている。漸く順番が来ると「待ってました!」とばかりに勢いよく仰向けになり、ニコニコしている。そのしぐさや顔がなんだか可愛くて、もう少し早くやってあげれば良かったかな、といつも少し心が痛んだ。その彼も出会って6ヶ月もすると、歩行器を頼りに歩けるようになった。私たちボランティアも嬉しくて、歩いている彼にいつも声をかける。するとさも得意げに、あのひまわりのような笑顔を返してくれた。

 

17

結核病棟に若い女性が入ってきた。男性ばかりの病棟で、彼女の若さが際立った。あまり人と話さず、いつも寝転がって漫画を読んでいた。彼女のすねたような態度が気になったが、タイ語しか話さぬ彼女とはコミュニケーションの取りようが無かった。

 

しばらくすると、ご多分に漏れず髪が刈り上げられてしまった。ある日はじめてマッサージを頼まれた。呼吸困難だ。早速、胸のマッサージをする。その日彼女の裸の胸を見てはっとした。乳首がピンク色で妊娠腺もない。一対どんな事情で感染したのだろう。若くは見えるが、夫から感染させられた妻の一人とばかり思っていたので、興味をかき立てられた。

 

親しい看護婦に聞くと17才だとのこと。ボーイフレンドとセックスした挙句感染したらしい、と聞きもしないことも教えてくれた。道理で母子感染にしたら、年がいき過ぎていると思っていた。潜伏期間を最短の3年として、いったいいつ頃感染したのだろう。それにしてもそんな17才の子供をこのような寺に預けてしまう親とは?彼女はその2週間後、肺炎であっけなく逝ってしまった。

 

妻たち

女性患者の殆んどが、主人から感染させられた人々だ。タイは自他共に認めるセックス産業が盛んな国で、今もそれを目当ての旅行者が引きも切らない。主人に浮気された挙句、HIVを感染させられるなどたまったものではないと私などは思う。寺もそういった事情を考慮して、女性感染者を優先して受け入れている。

彼女達は感染させられたにも関わらず、主人の死に目を看取り、さて、自分自身が発症すると、親戚縁者から見放されるという経過をたどって寺にたどり着く。私などは理不尽と怒るが、彼女達は運命と諦めているのかそのことに触れる人は少なかった。

 

大半が母親でもある彼女たちから子どもの話を聞く機会が何度もあった。母親の悲痛な思いに反して、親戚や施設に預けて来ざるをえなかったその子たちが母親を訪ねてくるということは、私がホスピスにいるあいだ一度もなかった。感染原因が‘婚姻関係に忠実’であったためであっても、一旦HIV、エイズに侵されたとなると、遺棄され、子どもとの連絡も取れなくなるという事実に、慰めの言葉もなかった。

 

バンガローに住む人々

病棟に入るのは終末医療が必要な人たちだ。患者の殆どがHIV菌のため下半身マヒで、紙オムツのお世話になっている。しかしそこまでの症状でない場合は、出来るだけ病棟外で暮らす。病棟は病原菌の巣窟で免疫力の低い人がすぐに‘餌食’となるからだ。

 

男性は一人暮らし、女性は安全面も考えてか、3−4人の共同生活となる。まだ動ける人は、なにかと仕事をしている。男性は広い敷地の掃除や、物品の輸送。女性はみやげ物作りや、料理。夫婦も何組かいる。子供を先に見送ってしまった夫婦、それでも元気に仕事をしている。夫婦のどちらか一方が病棟に入った場合は、夫か妻、どちらか元気な方が献身的な看護をしている。特に主人が妻に感染させたというパターンが多いので、妻が寝たきりになった場合、主人は傍目で見ていても涙ぐましいような看護をする。感染を知った時は荒れ狂ったのであろうことは想像に難くない。しかし嵐の過ぎたあとは、一様により密な夫婦関係になるようだ。夫婦とは不思議なものだ。

 

時には夫婦の片割れを亡くした者同士が新たに結ばれるというケースもある。私の知る一人の女性の場合、そのように新しい主人と暮らし始めてみても、すぐに先立たれ、結果的に2人の主人と1人の子供を寺で見送った。彼女自身ももちろん感染者で、人生をHIVウイルスで陵辱されたといっても過言ではないであろう。

 

 

 

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