家族と偏見

 

タイ人にとり、寺で死ぬことが徳を積むことになるという。寺の情報によると、一時はホスピスのウエーティングリストに10,000人以上登録されていたらしい。A師の知名度もあり、私がいた当時も入所者が引きも切らなかった。患者の大半が社会の最下層に属する人々で、この寺の慈善に頼ってきているのだ。まず資格検査のようなことが行われる。寺の方針として、症状の重篤度の高い人、女性、必然性のある人を優先的に入所させる。例えば家族が看護出来る状況にも関わらず、‘捨て’に来たようなケースを出来るだけ阻止しようとしている。しかし、最後の基準についてはその効果の程を疑う。ホスピスにいる患者の大半が‘遺棄’された人たちだからだ。

 

入所が許されるとその家族は一ヶ月に一度は面会に来て、ホスピスの看護婦から症状報告を聞くのを義務づけられる。そのときに患者の小遣いを補充したりする。寝たきりの患者の小遣いは、患者か家族の希望があれば事務所が預かり、週毎に患者に渡す。また死亡時に私物をどうするかという質問にも答えなければならない。大半の家族が残った小遣いや服を含めた私物を、寺に寄付するという選択をする。

 

家族や近親者の面会だが、私の働いた8ヶ月間に、面会者があった患者は数えるほどであった、多くても十人中一人ぐらいだったろうか。それ以外の家族は寺に預けた時点で縁を切ったかのごとく連絡を絶つ。何故だろう?とよく考えた。

 

ある日家族に電話をかけたいと言う患者に言われるまま、事務所に車椅子で連れて行った。その前からずっと「家に帰りたい」と言い続けていた。電話はつながったが、話が思わしくない方向に行っているようで、彼の顔が曇ってきた。「迎えに来て欲しい」と言う彼に、電話の向こうでは「行けない」と答えているのだろう。電話が終わり、40バーツほどの電話代を払ったあと、病棟に帰る途中、彼は泣いていた。寺は患者が死んでも家族には連絡をしない、気になるなら家族から連絡してくるべきだという。理屈は分かるような気もするが事は生死に関わることである。

 

寺の方針に憤りを感じた私は、ある青年が危篤状態になった時「電話代を負担するから家族に来てもらうよう頼んで欲しい」と事務所の職員に言った。案外あっさりと了承したその職員から聞かされたのは「まだ死んでいないんだろ。死んだら連絡をくれ」という家族の受け答えだった。また別の機会に同じ事を頼むと、登録してあった電話番号はすでに使われていなかった。結局、家族は患者を捨てにきているのだ。患者は患者でそれをさせる色々な過去があったのだろうが、「微笑みの国タイ」、仏心の篤いタイでこのようなことを目の当たりにするとタイ人が分からなくなる。しかし、これもタイ人の持つ本質の一端である。反対に、肉親の死も知らぬまま久しぶりに訪問すると、ベッドには別の人が寝ていたと言うケースもある。そんなとき家族は、血相をかえてスタッフに聞きに行き、肉親の死を知る。まるで映画を見ているような、そんなことが毎日のように起こる場所である。

 

HIV,エイズに対する世間の偏見は根強い。いきおい患者を迫害するようなことも起こる。患者の中には、兄弟でさえ一緒に食事をしてくれなくなったと嘆く人もいた。村八分にされたり解雇されたり等、その種の話しは引きも切らないが、それゆえに寺に入ってきて、ホッとするという患者も多い。彼らは同病の仲間の間にやっと自分の居場所を見つけるのだろう。

 

 

 

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