「押しかけボランティア」
この文章を書いている、今日2004年12月1日は、世界エイズデーです。私が初めてボランティアをしたのは、いまからおよそ3年前に、ロップブリ県のプラバートナンプー寺で、約8ヶ月間末期のエイズ患者のお世話をしたのが最初です。当時は、抗HIV薬などは高嶺の花で、出会った患者さん殆んど全員が、棺桶を出口にして寺を去られました。
色々な経験をし、様々な過去を持つ人々と出会いました。大半が、社会的には下層階級に属する人々で、家族や親戚から見放され、文字通り、寺に‘棄て’置かれた人々です。女性患者の大半が夫に感染させられた妻で、夫を先に見送った後は、取り巻く社会の偏見や経済的事情で、彼女たちの居場所がなくなり、費用面の心配をせずにすむこの寺で人生最後の日々を過ごしている人たちでした。ただ単に、婚姻関係に忠実であったばかりにこんな目にあう、そんな不条理なことを、と何度思ったか知れません。母親でもある彼女たちは、一様に子供の将来の心配をしていました。貧しい身の回り品の中から、写真を取り出し、幸せだった頃の話をしてくれる人もいました。私自身は子供を持ったことがないので、女性患者さんたちの気持ちが100%分かったとは思いませんが、死を避けられない状況に身を置いている、彼女たちの心情を思うと、慰めの言葉もありませんでした。
その後一旦帰国し、次にタイに戻ってきたのは一年後の2003年5月でした。寺でボランティアをしていた時は、エイズに対する知識もあやふやなものでしたが、帰国中の一年間で、しっかりと勉強する機会があったのは良かったと思っています。その上での私のHIV,AIDSに対する認識は、この病気は他にも何万、何十万とある、病因の一つに過ぎない、ということです。個々の病気には、その病気独自の対処法があります。HIV、AIDSの場合は、抗HIV薬が開発され、その他の「日和見感染症」の薬があります。二次感染はコンドームの使用を始めとする、基本的な予防知識さえあれば避けられます。そういった意味でもHIVウイルスは他の病因となんら違うところはありません。
2度目のタイ滞在を決め、チェンマイに来たのは、それまでにバックパックでアジア各国を回った際、ここが気に入ったからです。私なりに、物価、街の規模、住みやすさなどの基準を設けた枠の中に、ピッタリ納まった街です。唯一のネックは言葉でした。寺では、ずっと英語と片言のタイ語で通していましたが、患者さんには本当に迷惑をかけてしまいました。だれでも死に際に、外国語なんて使いたくなかった筈です。それで、ひとまずタイ語をと、集中的に勉強し、その間にも、こちらでのNGO関係の方達にお目にかかり、北タイのNGOの現状を色々紹介していただきました。余談になりますが、神宮寺の高橋住職とは、ご縁があって、プラバートナンプー寺で初めてお目にかかり、またチェンマイで「アクセス21」というNGOを展開されている関係で、親しくさせて戴いています。
チェンマイで、どういう形でボランティアをするか、という事にはあまり迷いはありませんでした。プラバートナンプー寺で出会った、女性患者達の事がいつも心にあったからです。彼女の子供たちは、どうしているのだろうか?祖父母や親戚に預けられている、という話をしていたが、皆、ちゃんと育っているのだろうか?施設に入ったりしているのではないだろうか?そんな想いで、その年12月、チェンマイにあるV児童養護施設でのボランティアの志願をしました。
V児童養護施設はタイ全国で数箇所ある国立孤児院の一つです。北タイ地方という地域柄、山岳民族の子供も含め、孤児院全体では500人ぐらいの子供が暮らしています。新生児や乳児は、年齢別に別れ男女一緒に暮らし、就学期を迎える6才以上は、男女別々のボーイズホーム、ガールズホームと呼ばれる家で暮らしながら通学します。その他に身寄りのない、大多数が少女のような妊婦が出産までの時期を過ごす為の‘駆け込み寺’のような家もあります。そんな母親から生まれた子供の大半が孤児院で引き取られることになります。インファーと呼ばれる家だけは例外で、HIV感染者の0-15才までの子供が30人前後同じ建物で寝起きを共にしています。これはHIVの2次感染の危険を考慮してのものだそうです。孤児院にボランティアを志願した場合、殆んど例外なく0−1才児の家で働くように指示されます。これは、やはりその年齢が一番手を必要とするからでしょう。しかし私の場合は寺でのボランティア経験を買われ、インファーで働くようにとの指示でした。ただし、この孤児院でのボランティア期間は1ヶ月間だけ、という不文律があり、そんな短期間で何を出来るのか、とも思いましたが、言われるままに働き始めました。
インファーに入ってくる新生児は、母親が感染者であったり、捨て子であるために身元がわからず、本人の血液検査の結果が出る迄、一旦隔離される子供たちです。しかし、1才以上の子供は、感染が確定しています。孤児、HIV感染。生まれながらに、これほどの苦を背負った子供をどう扱い、どう私自身の気持ちの中で受け止めたらよいのか?そんなことを考え続けた、1ヶ月間でした。
働き始めて間もないある日、オーストラリア人ボランティアに誘われ、Vホームの子供たちが入院している近隣の病院へ行く機会がありました。彼は毎日、子供たちの長いお昼寝の時間を利用して、見舞いに行っていたのです。そこ、N県立病院は、堀に囲まれたチェンマイ旧市街から、北に向かい約10kmほど行った国道沿いにある総合病院です。そこでは、インファーの子供たちと同じように、孤児という厳しい現実だけではなく、病苦をも押し付けられた子供たちがいました。回りの子供たちには、親、時には両親が揃って付いて看病をしています。彼ら児童養護施設の子供たちのベッドの周りだけが、人の気配がありません。看護婦や助手がミルクを上げる時は、赤ん坊の胸に当て布をし、瓶を支えます。吸い口は赤ん坊の口の中で不安定に回り、時には転げ落ちたりしますが、それを拾ってまた口元に戻してもらえるまで、赤ん坊は空腹に耐えねばなりません。このやり方はホムでも同じです。
その日以来、私もお昼休みには病院に行き、Vホームのボランティアを辞めてからは、病院の‘押しかけ’ボランティアとして引き続き働いています。他に親や親戚の付き添いが無い子がいれば、その子達も一緒に世話をする日々です。
毎日病院に行き、ベッドを覗き込むまでの不安感、罪悪感は今も変わりません。昨夕、私が帰ってから、どうしていたのだろう。悪い夢を見て、怯え泣きしても、あやしてくれる人はいません。オシメもぬれる都度、ちゃんと変えてもらってはいないでしょう。物心がつき始める5才以上の子供たち、孤児院という枠をでて、一般の社会、親がいて、見舞い客があって、という現実をどう受け止めているのだろうか?私の杞憂を吹き飛ばすかのように、子供たちは屈託なく振舞ってくれています。でも私はやっぱり心配になります。
確かに、国の施設に引き取られればHIV感染孤児を含む、全ての孤児達は保護され、病気の時には、親が与えられないかも知れない治療を受ける機会はあります。しかし、保護者がいないということは、彼らが、場合によっては0才から社会の仕組みに組み込まれる事を意味します。親がいれば、ある程度の年齢までは、社会とのシールドになってくれますが、彼ら孤児は取り巻く社会のルールや決定に一人で立ち向かわねばなりません。健常児であれば、関係機関が決めた里親や養父母に引取られるかもしれません。そんな縁が無ければそのまま孤児院暮らし。そのような現実と、日々真正面から向き合っている子供たち。
私のしていることに何の意味があるのか?根本的なことは何も解決できていない。安っぽい感傷や自己満足に過ぎないのではないか?そんなことをいつも考えています。毎日心が揺さぶられます。先週は3ヶ月と5ヶ月の女児を二人、エイズでなくしました。二人共、私以外に見送る人はありませんでした。怒り、悲しみ、無力感、そんな気持ちを、「一期一会」と無理やりなだめながら、子供たちとの日々を過ごす毎日です。
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